---

「…」
　小松が目を覚ますと、そこは見慣れた部屋だった。
　そしてしがみ付いて離れない子供達と変に余所余所しい大きな子供達。
「…いつも通りで良いんですよ。怪我をするのだって見習いの頃はしょっちゅうでしたし」
「解ってる。それはオレ達も解ってるんだ」
　だが、いつも通り、がどうだったのかが思い出せない。
　小松に出会うまで他人を避けた生活をしていたツケが回ってきたのだ。
　好きな事が出来ない辛さ。
　治るまで、とは言え生活の一部であったモノを失う辛さは本人だけのモノ。
　自分達が代わることも、小松が譲ることも出来ない。
　他人と距離を置いていたトリコ達はそんな思いを抱えた者と対峙した事が無かった。
「こまつはこまつなのにな」
「れはまつがいっしょならい」
「…」
　小さなココはギュっと小松の服の端を掴む。
　こうして近づいて良いのか。
　小松が目を覚ますまでは自分も今までと同じ様に小松と居られるかが不安だった。
　だが、目を覚ました小松の顔を見た時。
　これからも一緒に居たいという思いだけが強くなった。
　自分達の姿を見て安心した小松の笑顔。
　その笑顔が自分がこれからも一緒にいて良いのだと、言ってくれていた。
「…まったく…大体の話は解りました。ただ、1つだけ気になることがあるんですけど…」
　トリコ達を諭すのを諦め、小松はあの地下での出来事に話を戻す事にした。
　大まかな話は全て聞いた。
　地下に居た子供達の結末も。
　しかし、その中でも1つだけ答えの無い出来事がある。
「ココさんも見たと思いますけど、あの子を刺激したのは一体…」
　黒い獣が暴れる前。
　確かに視界に入ったモノがあった。
　一瞬の事ではあったが、小松にはそれが獣が暴れる原因であったとしか思えなかった。
「うん、なにかいた。けど…」
　小さなココの目にもそれが何かまでは解らなかった。
「話はチビココから聞いてる。所長にも調べて貰ってるが…」
　黒い獣の身体を調べたが特に異常は無く、今は地上と地下それぞれの研究所に設置されている監視カメラの映像を確認している最中だった。　
「どっちにせよ、変なモノが紛れ込んでたなら所長の怠慢だからな。小松が気にする事じゃねぇよ」
「気にするなって言われても…どうしても引っかかるんですよね…」
　無視したらいけない様な気がする。
　どうしてか、と理由を聞かれても説明する事は出来ないが、見落としてはならない何かを見落としている気がしてならなかった。
　その姿形を思い出せないか、と記憶を辿っていた小松の思考を今となっては聞きなれてしまった音が遮る。
「あ、そう言えば出かける前に食べたっきりでしたよね」
　誰の腹の虫かは聞かなくても解る。
　何時もならば直ぐにでも準備に取り掛かるのだが、今日からはそうはいかない。
「なぁ…めしってだれがつくるんだ？」
　小さなトリコの小さな疑問の答えは暫くの間、返ってくることは無かった。

---

「面倒くせーが、オレがこのガキに声の使い方を教えろとよ」
　強制ではない。
　マンサムとて、ゼブラが容易に引き受けるとは思っていない。
　が、自然に声を出してしまっている者にとって声の出し方を教える事は困難である。
　その上、音弾の原理は音弾を使える者が一番理解している。
　だから断られる事を前提でゼブラに打診したのだが、報酬を貰うまで暇だからという理由でゼブラはそれを引き受けた。
『このままでいい』
「あ゛？」
『ふべんはない』
　話したい相手に自分の声は届く。
　周りに聞こえていようが聞こえていなかろうが、関係ない。
「フン、どっちでも構わねーよ。てめぇが覚えようがその気が無かろうがな。だが、一度約束した事はオレは遣り通す。それだけは覚えておけ」
『…おりじなるだからといいきになるな』
「てめぇこそガキだからってチョーシにのってんじゃねーぞ」
　周囲の者にはゼブラの声しか聞こえないが、小さなゼブラが何を言っているのかは大体予想がついた。
「なぁ！それよりこまつは！」
　これだけ周囲が騒いでいても目を覚ます様子はない。
　トリコから大丈夫だと聞かされてはいるが、ならば何故目を覚まさないのかと不安になる。
「あー、取り合えず小松にどう説明するかを考える時間が欲しかったからな」
「精神的な疲労もあるだろうし、ゆっくり休んで貰おうと思ってね」
「松にはワリけど、薬で寝てもらってる」
　小松がどうこうと言うよりはトリコ達の方が心の準備をする為の時間が必要だった。
「なんでそんなことするんだよ！」
「小松の手なんだけどよ…傷が深くて暫く包丁は握らせるなって言われたんだよ」
「治らない訳じゃないんだ。けど、無理に使おうとすれば痛みがあるし、傷の治りも遅くなる」
「完治するまで料理するな、っても松のことだからな」
　料理に命を掛けていると言っても過言ではない小松の事。
　ただでさえ、レストランの料理長という立場でありながら度々厨房を空けてしまっている。
　この上、怪我で長期休むという選択をするとはトリコ達には到底思えなかった。
「まつ、むちゃしない」
「だよな。ばんぜんのたいちょうじゃなかったらうまいもんはつくれないっていってたしさ」
　な、と小さなトリコとサニーがココに同意を求めようとしたが、ココはそれどころではなかった。
　自分が原因で小松が怪我をし、命の危険に晒された。
　大丈夫だと聞いた時は命の危険が無くなった事に安心した。
　その為　　　　　　　小松の怪我を忘れてしまっていた。
　自分に触れたが為に焼け爛れてしまったそれを。
「…ぼくのせいだ…」
　料理の楽しみを小松から奪ってしまう。
　それは命を奪ってしまう事と大差ないのではないだろうか。
「もう一度言うよ。治らない訳じゃない。小松くんの手はちゃんと動く。傷が治れば今まで通り、料理も出来る。キミが気にしすぎると今度は小松くんが気を病んでしまう。キミがするべきなのは後悔じゃない。同じ事を繰り返さない為にどうすれば良いかを考える事だ」
　過ちを犯したならば、同じ過ちを繰り返さないことが唯一の贖罪。
　犯してしまった過去は変える事は出来ない。
　いつまでも悔やんでいるばかりでは、何も変わらない。
「松がどんな反応するか、想像しなくても解る。解るが…」
「それだけに、どうしたら良いかが解らねぇんだよ…」
　きっと小松の事だ。
　自分が選んだ行動が齎した結果を悔いるような事はない。
　怪我に関しても仕方がないくらいで、グチグチと文句をたれる様な事はしないだろう。
　何せハントに行く度に遺書を残すような者なのだから。
　そして周囲を思い、完治せずとも料理に支障がないと判断すれば仕事にも戻る事だろう。
「何より、料理の出来ねぇ小松と普通に接する事が出来るかどうかってのがオレ達には一番の問題なんだよ」

---

　開いた扉から室内に飛び込もうとした小さな3人は中にいた人物を目にし、その動きを止めた。
　意識を持ってから出会った者達と同じ感覚。
　【絶対に勝てない相手】
　今の自分達とでは力の差がありすぎる相手。
　その人物を警戒しながら室内に目を戻すと、目的の人物の姿を見つけた。
　が、見つけた喜びも束の間。
　その傍には、やはり見た事のない子供の姿。
「…だれ？」
　小さなサニーが声をかけると、子供が振り向いた。
　その顔は最初に目に飛び込んできた人物の面影を持っている。
『おなじもの』
　廊下で聞こえたのと同じ声。
　だが、その声は先程と同じ様に耳元で聞こえた。
「おれたちとおなじ？」
『そうだ』
「…きみがZ024？」
『いまはゼブラ』
「おい、お前ら。あいつの事、知ってんのか？」
　訊きながらも入り口から動かない小さなトリコ達の背を中に入るように促す。
「…ゼブラ…ぼくたちといっしょにくるよていだったこ…」
　小さなココは確認するように名前を呟いた。
　あの子供が本当にZ024ならば、彼は自分達の兄弟と言うことになる。
「名前は知らないと言っていたよね」
「？あいつ、じぶんでいったじゃん。なぁ、あのでっかいのおまえらのしりあい？」
「あぁ、あいつがあのチビのオリジナルだ。それより名前なんていつ聞いたんだよ」
「きこえなかったの…？」
　あれ程はっきりと聞こえたというのに。
「音弾だ」
「あ？そのチビ、音弾で話してんのか？」
　トリコの言葉にゼブラが頷く。
「音弾でしか話せない、が正しいがな」
　普通は逆ではないか、と思ってしまうトリコ達だったが、理由を聞いて納得した。
　小さなゼブラは小さなトリコ達が小松の元で育った時間と同じだけの時間を、溶液の満たされた容器の中で育ってきた。
　外に出しても大丈夫だと判断される大きさまでの予定だったが、先に体の育ったタイプZが容器から出した途端に死へと向かう原因がつかめず、また本人も外に出る事を望まなかった為に出す事が叶わなかったのだ。
　そんな小さなゼブラの気持ちを変えたのが、地下での小松の行動だった。
　地下に居た自分と同じモノ達の声。
　同じモノだからこそ聞き取れた、最後の声。
　もう少しだけ、生きたかったと。
　研究の対象として扱われるのは不愉快だったが、そうではないモノをはじめて見つけた喜びと、その喜びを感じ続けることが出来ない悲しみと。
　様々な感情が入り混じった声が小さなゼブラには聞こえていた。
　そしてそんな自分達の願いを叶えられるのが自分しか居ない事も同時に解った。
　所長室で保護されていた為に地下研究所に居た自分よりも命数は多い。
　自分の願いを叶えようと思ったのは、彼らの声に混じった感情を確認したいからだった。
　マンサムにそれを伝えようとして、小さなゼブラは初めて気付いた。
　溶液と容器に遮断された場所から、その外側に居るものにどうやって言葉を伝えたら良いのか。
　その手段を自分が知らない事に。
　マンサムに伝えようという必死の思いは声にはならず　　　　　　　　　　音弾になってしまった。

---

　タッタッタッタッタッと施設内に足音が響く。
　すれ違う者達が何かを言っているが、走っている者の耳には入っていなかった。
　走りながら疑問ばかりが湧いてくる。
　何故、同じ棟で治療が行われていないのか。
　何故、治療が行われている所がこんなに離れているのか。
　何故、オリジナルはあんなに落ち着いているのか。
「こまっいっっっっっってぇ！」
　目的の部屋に到着し、その扉を開けようと手を出した途端。
　手に静電気とは違う痛みが走った。
　怪我はしなかったモノの、その手は勢い良く弾き飛ばされる。
「…れもさわれない…」
　サニーも触覚を使って扉を開けようとするが、触れようとするだけでトリコの手と同じように弾かれてしまっていた。
　見た目はごく普通の扉だった。
　このフロアだけ特別な防衛設備でもあるのかとココが他の部屋の扉に触ってみるが弾かれることは無い。
　目的の部屋だけ　　　　小松が中に居ると聞いたこの部屋だけがおかしかった。
　どうやって中に入ろうかと3人が頭をつき合わせていると、ゆっくりと歩いていた3人が追いついた。
「お、やっぱり入れなかったか」
「やっぱりって、このとびらのしかけをしってるんですか？」
　ならば先に教えて欲しかった。
　最も詳しい話も聞かずに部屋を飛び出したトリコとサニーを追ってココも出て行ってしまったので、聞く暇が無かった、とも言えなくもないが。
「仕掛けも何も、中に居るヤツに解除させないとならないんだ」
「っても、こっちの会話は筒抜けなのに解除しねーんだから扉壊してもよくね？」
　壊した所で研究所の施設。
　心が痛む事も無い。
『こわしたらだめだ。いま、ねてる』
「え…このこえって…」
　聞いた事の無い声だった。
　だが聞こえ方に違和感を覚える。
　何処かで同じような聞こえ方の声を聞いた気がした。
「ん？何か聞こえたのか？」
「ねてるからこわすなって」
「なら、さっさと解除しろってんだよ」
　トリコが扉に手を伸ばすが、やはり弾かれてしまう。
「聞こえてんだろ！ここに居るのはオレ達とチビ共だけだからさっさと開けろ」
　暫くして、扉が風も無いのに振動したかと思うと、再びトリコが扉に手を伸ばした。
　するとその手は弾かれる事無く扉の取っ手を握り、開ける事の出来ずにいた扉はすんなりと開いた。

---

「って事で、お前達の命は繋がった訳だ」
　元は1つだったとは言え…
　死を待つしか無かった命とは言え…
　人の命を犠牲にして繋がった命。
「ま、生きる為に他の命を貰うのは誰だってする事だ」
　今回は方法が違っただけの事。
　そして相手が人であっただけの事。
　人は他の生命を奪わなければ生きていけない。
　だからこそ。
「キミ達も、ボク達も。今、生きている事に感謝しながら生きなきゃならない」
　望んだ生では無かったとしても。
　他の犠牲の上に生きている以上は、懸命に生きねばならない。
「…わかりました」
　小さなココが頷くと、トリコとサニーも頷く。
　あそこに居た自分達と一緒に過ごす事は叶わなくなったが、ずっと一緒に居る事には変わらない。
　自分達の中に彼等が居るのならば、自分達が感じる思いを彼等も感じてくれると信じるしかない。
　その道を選んだのは、誰に言われたからでもなく彼等自身なのだから。
「それで…あの…こまつさんは…？」
　こんな結果になってしまって悲しんでいないだろうか。
　何よりもあの後どうなったのか。
「あぁ、松なら大丈夫だ…と言いたいが…」
　言葉の歯切れが悪い。
「あ～…何だ…お前達にとってもオレ達にとってもライバル出現ってとこか…」
「まだそうなると決まった訳じゃないだろ」
「いや、絶対にあいつはそうなる」
「「「？？？」」」
　トリコ達の口調から、命は勿論の事、傷自体もそれ程深刻な問題にならなかった事は感じ取れた。
　自分の体質の為に傷付けてしまったと心配していた小さなココと、そんなココの心境を感じ取っていたトリコとサニーは安心すると共に、一抹の不安が過ぎっていた。
　小さな3人にとってオリジナルの3人以上のライバルは存在しない筈だった。
　しかし、そのオリジナルの3人がライバルと言う者の存在。
「あのでっかいいぬか？」
　自分達が地下から離れる時、小松に寄り添っていた大きな獣。
　その姿から小松に悪い感情を抱いていない事は解っていたが、オリジナルがライバルというような存在になるとは思えなかった。
「あぁ、アレも問題っちゃあ問題なんだけどな…」
　トリコ達の存在を確認し、一度意識を手放した獣は意識を取り戻すと小松から離れようとしなかった。
　お陰で小松を地上の施設内にある医療室へ運ぶのは楽だったが、その後、獣を引き剥がす事に体力を費やす事になってしまった。
「自分の目で確認した方が良いと思うよ。キミ達がアイツを如何受け止めるかはボクにも解らないけどね」

---

　地下の研究所を出る時、其処に居たモノ達の答えは1つだった。
　地上へと助けを呼びに行った自分達と共に生きる。
　その答えをトリコ達は予測していたが、現実は違った。
　小松と共に育った者達の中で生きる。
　個としての意識が消えようとも。
　自分の知らない「幸せ」を実感する事が叶わなくても。
　寿命の尽きる寸前の自分達と、寿命の近付いている彼等が生き残る為のたった1つの道。
「もともと、ぼくたちはひとつだったんです。だからこれならしぬのとはちがいます」
「おれたちはここからかいほうされるなら、どんなほうほうでもいいんだ」
　この研究所が無くなり、これ以上実験が続けられるような事が無くなる。
　それが彼等の願いだった。
　研究所がなくなる条件が【小松の死】ならばそれを願うが、今は小松が死なずとも研究所は閉鎖される。
　願いが叶うならば、もう望む事はない。
　望む事は無いが…こうして話している間にも命の終わりは刻一刻と近付いている。
　彼等達を浸しているグルメ細胞を活性化させる溶液が無ければ、とうに終わっている命。
「ぼくたちがしんでしまったら、いっしょになることはできません。だから、いましかないんです」
　トリコ達は自分達と共に暮らしていた小さなココの言葉を思い出した。
〖ぼくは…ぼくたちといっしょになれたらおおきくなれた〗
　此処に来る前、自分達の状態を打ち明けた時の言葉を。
「けどよ、一緒になるってどうするんだ？」
　細胞の状態だったならば、まだ解る。
　が、個として存在してしまっている今となっては無理な話ではないかと。
「ぼくたちのなかのいきているところをあげるんです」
「生きている所を？」
「…骨髄か」
　研究者の呟きにトリコ達は振り返った。
　説明を求めるその視線に、研究者は言葉を続けた。
「これらが未だに生きている、という事は血液は生産され続けているという事だ。だが、死んでしまったら活性化した骨髄を得る事は出来なくなる。しかし…この方法ならばお前達も生きられるのでは？」
　骨髄は採取しても1ヶ月もすれば元に戻る。
　活性化している骨髄を移植するだけで寿命が伸びるならば、同じ方法が彼等にも当てはまるのではないだろうか、と研究員は考えた。
「だめなんです。じぶんでわかります。ぼくたちはもう…ここからでただけでおわりなんです」
「もっとおれたちがちいさかったら、ほんとうにいっしょになれたんだけどな」
　個となる前。
　研究者が自分達を引き離したりしなければ。
「れたちのいきてるところすくない。だから、あいつらにやる」
　自分達の中の最後の欠片を。
　僅かしかない生きている部分を。
　例え1人からは僅かしか取れずとも、此処に居るだけの者から採取すればそれなりの量にはなる筈である。
「なら、オレらから採れば良いじゃねーか」
「おれたちはおれたちといっしょになればいきられるって、ほかのことをしるまえからしってたんだ。そうしろっていわれてるかんじがしたっていうか…」
「でも、あなたたちにはそれはないでしょう？」
　無意識の内に知っていた答え。
　それを知る者と知らない者。
「だから、ぼくたちはぼくたちがいっしょにならないとだめだとおもいます」
　生きている細胞の声無き言葉は、彼等が意識を持った時から訴え続けていた。
　1つに戻りたい、と。

---

「お、気がついたか？」
　目を開けると知った顔が覗き込んでいた。
　周囲を漂う薬の臭い。
　それが、此処が家ではない事を教えていた。
「無茶するんじゃねーよ。皆、心配してたんだぜ？」
　トリコの指差す方へと視線を動かすと、ココとサニーの姿もあった。
　が、此処に居て欲しい存在が其処にはいない。
「こまつは？それになんでおれたちねてんだ？」
　どうやら今回は自分が一番初めに目を覚ましてしまったらしい。
　小さなトリコと並んで、小さなサニーとココもベッドの上に寝かされていた。
　階段を登りきってマンサムに現状を伝えた所までははっきりと記憶に残っている。
　そして、小松の元へ戻ろうとした事も。
　だが其処から先の記憶がプツリと途切れていた。
「小松はまだ治療中だ。心配いらねーよ。ココも死相は見えねぇって言ってたからな」
「そっか」
　小松が助かる。
　その言葉だけで安心出来た。
　誰の言葉でも良いわけではない。
　自分達と同じ様に小松を思っている者の言葉だからこそ、信じる事が出来た。
　安心し、身体の力が抜けた事で小さなトリコは自分の身体に違和感を覚える。
　体温が平常を保っている。
　この数日の間、小松に心配をさせまいとはしていたが上がり続けていた体温が。
「…なぁ、おれ、もうだめなのか？」
　自分が死ぬ時にどうなるのかは解らないが。
　今までと違う事が身体に起こっているなら、もう自分の命の時間が尽きようとしているのかも知れない。
　ならばその前に、ちゃんと小松にお礼を言いたいと思った。
　自分達を育ててくれて、ありがとう、と。
　自分達に幸せを教えてくれて、ありがとう、と。
　自分達を個として愛してくれて、ありがとう、と。
　そして謝りたかった。
　生きると約束したのに生きられなくて、ごめんなさい、と。
「バーカ！」
　そんな事を考えていた小さなトリコの額を、トリコのデコピンが襲った。
「お前なぁ…調子良くなったってのに何でダメだって思うんだよ。小松が聞いたらこの程度じゃすまねぇぞ」
「よく…なった？」
　何かをした記憶は無い。
　死へと向かっていたのは確実だったのに、どうして良くなったのか。
「どれだけ寿命が延びたのかはオレも知らねぇけどな。チビココが言った通り、最悪を回避する方法はちゃんと存在したって事だ」
　その手段が有効である可能性は殆ど無かったというのに。
「それに君達の細胞の寿命を多少なりとも伸ばす手段もね」
　最悪を回避する方法。
　それが教えてくれた新たな可能性。
「前らはあいつ等の分まで生きろ。それが生き残ったヤツが背負うものだ」
「…あいつら？あいつらってだれだ？」
「ま、その事はそっちのチビ共が目を覚ましたら話してやるよ」
　どうして直ぐに教えてくれないのだろうか。
　もし…最初に目を覚ましたのが自分ではなかったら、直ぐに話してくれたのだろうか？
　何時も自分とサニーへの説明が後になるように。
「面倒だろ？同じ説明を2度も3度もするのはよ」

---

　変わる心。
　変わる事の出来る心。
　研究者達とて変わるモノならば変わって欲しいと今は願っている。
　だが、到底ここに居るモノの心が良い方向に変わるとは思えなかった。
　あの時の言葉と目。
　彼等をその様に育ててしまったのは自分達。
　ならばその始末も、自分達でしなければならない。
　非人道的な今までに散々行ってきた。
　いまさら批判の1つや2つ、増えた所で気にはならない。
「小松シェフはこいつ等の本性を知らないから言えたに過ぎない。こいつ等の本性を知れば…引き取ろう等と思える筈が無い」
　心が簡単に変わってしまうと言うならば。
　真実を知った小松の心も、変わるであろうと研究員は思っていた。
　そしてここに居るモノを処分するなと言う、トリコ達の心も。
「こいつ等はこの環境から救おうとした小松シェフの死を願った。自分達の望みを果たす為にな。そんな相手を…お前達は受け入れられるのか？」
　ゼブラを出所させてまでその身を案じた存在の死を願った者達。
　常人ならば受け入れる事は出来ないだろう。
　だが、トリコ達は違った。
「オレ達が受け入れられるかは関係ねーんだよ。小松が如何したいか。オレ達が優先するのはそれだけだ」
　その身を害する者が居るならば遠ざけたい。
　その身を危険に晒すような事はしたくない。
　しかし。
　自分達の傍に居る限り　　　　　　　　　　　自分達が傍に居て欲しいと願う限り、それは出来ない。
　そんな自分達が、自分達の思いだけで小松の思いを妨げる事は出来ない。
「例え…ここに居るボク達の命が限られた、短い時間しか残されてないとしても」
「松がそれを覚悟の上で引き取るってんなら、オレ達に反対なんて出来ねーし」
　もしかしたら此処で処分される以上に残酷な事かも知れない。
　幸せを実感した瞬間に死を迎える可能性もある。
　ならば幸せを知らずに死ねた方が、未練無くこの世を後にする事が出来るだろう。
「どうしても処分するってんなら、小松が目を覚ましてからにしてくれ。小松も自分の気持ちだけを押し付けたりはしない。こいつ等自身が如何したいのか。それを確認させてやってからでも構わねーだろ」
　如何したいのかは既に決まっている。
　此処を無くしたい。
　その想いが、ここに居るモノ達を人の心から遠ざけた。
　だが、今、別の形でその願いは叶う事になる。
　その願いが叶った時、ここに居るモノが如何したいかは研究員達にも解らない。
「お前等！どうせ聞こえてんだろ！」
　トリコの大きな声に遮音壁で外部の音が遮られている筈のモノ達の身体がビクッと動く。
　その様に管理をしている研究員が装置の確認をするが、壊れている様子は無い。
「小松が目ぇ覚ますまでに決めておけ！このまま死ぬか！それとも少しでも外で生きるかをな！」
　どちらを選ぶかは個の自由。
『…おまえはどうしたらいいっておもってんだよ』
「あ？オレに聞くんじゃねぇよ！自分で決めろって言ってんだろ！」
　ウォン、と身体を横たえていた獣から小さな声が聞こえた。
　トリコ達を此処へと導いた切羽詰った声とは違う。
　その声はトリコ達に「生きたい」と訴えかけていた。

---

「…実験は中止、この施設も破棄する。それで良いだろう」
「それを信じろと？」
　こんな施設を破壊した程度で収まる怒りではない。
　トリコもココもサニーも。
　普通の人間である小松が命の危険に晒されるのはこれが初めてではないが、それは自然界での事。
　このような　　　　本来ならば関わる事の無かった者達の為に危険に晒して良いモノではない。
「信じて貰えずとも構わない。ただ…小松シェフに教えられたのだよ。我々では【人】は造れないという現実をな」
　そして、自分達から実験を終わらせなければ　　　　　小松の命を狙うモノがいると言う現実。
　研究者達は何も小松に危害を加えたかった訳ではない。
　ただ、自分達では出せない結果をもたらした小松に協力して欲しかっただけなのだ。
「勿論、今でも実験を続けたい思いは残っている。だが、人を危険に晒してまで行うつもりはもうない」
　何の為にIGOで研究者の道を選んだのか。
　何の為にこの実験を始めたのか。
　いつの間にか結果のみを追い求めるようになってしまっていた。
「ここに居るモノ達も　　　　　　処分する」
「なっ！？」
「処分する…だって？」
「前ら…！」
「相変わらずチョーシにのりやがって」
　四天王の怒気を肌で感じる。
　だが、なんと言われようともそれだけはしなくてはならなかった。
「それがこいつ等の為だ！」
　小松を殺してでもここを無くそうとした。
　大丈夫かと心配する思いよりも、この場を無くし　　　　　自分達を終わらす事を望んだ。
「小松シェフはこいつ等も引き取ると言っていた。だが…私にはこいつ等が人の心を持てるとは思えない」
「それはテメェの勝手な思い込みだろうが！此処しか知らなけりゃ生きたいなんて思えないだろうけどな、外を知ったら生きたいって思えるもんなんだよ！」
　共に暮らした小さな3人の様に。
　そして他人を思う気持ちを貰った自分達の様に。
「この小松くんの傷……こんな毒を作れるのはボクしかいないし、攻撃を受けたにしては付着面がおかしい。料理人にとって大切な手を傷付けてまでも…小さなボクを抱きしめたんだろうね。自分を犠牲にしてくれる人の存在が心を変える。貴方達も変わったように此処に居るボク達も変わるとは思えないのか？」
　変わらない心など存在しない。
　良い方へ、悪い方へ。
　どちらに変わってしまうかは誰にも解らないが、良い方へ変わる機会があるのならば。
「オレはこいつらなんて如何でも良。けどな…自分の知らないところで死んじまったら松が後悔する。松が引き取るって言ったなら松に預けろ」
　此処に居るモノ全てとなるとかなりの人数になるが。
　それでもきっと小松ならば1人1人を大切にする事だろう。
　自分達と小さな3人を別の存在として認識してくれた様に、1人1人の個性を見つけ、それを伸ばそうとするに違いない。
「此処に来る前に所長から話を聞いた時はこんなのが本当に居たら一匹残らず始末しようって思ったんだけどな」
　トリコは小松を守り続けた獣へと視線をやる。
　傍に来て直ぐにこの獣が自分達の細胞を持ち合わせている事は解った。
　毒に犯された小松の身体に触れていても倒れず、天井を崩した声、サニーか受け止める前に受け止められていた瓦礫。
　その能力は四天王そのもの。
「こいつが小松を守ってた。たったそれだけの事で話を聞いた時の気持ちが収まるなんて自分でも思ってなかったさ。人の心なんてのはこんなに簡単に変わるもんなんだよ」

---

「はげおやじ！」
「何！誰がハンサ…」
　マンサムの言葉尻はジュッと背後の壁が溶ける音にかき消された。
「じょうだんをいってるじかんはないんです！」
　容赦の無い一撃をマンサムの顔目掛けて放った子供はその口調とあい反して今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「まつがたいへんなのに！」
「小僧が？」
　マンサムがこの部屋に戻ったのは偶然ではない。
　ゼブラのエコーロケーションにより3つの反応が階段を上っているのが確認された為に、地下はトリコ達四天王に任せて自分は研究所へと戻ってきたのだった。
「だいじょうぶっていってたけど、ぜったいにうそなんだ！だからはやくあいつらといっしょにきてくれよ！」
　嘘と解っていても、その場から離れるしかなかった。
　それを小松が心から望んでいると、解ってしまったから。
　だから出来る限りの速さで階段を登ってきた。
　地下にたどり着く為に掛かった時間と比べれは遥かに早い速度で。
　それでも、折角早く登っても其処から先で時間が掛かってしまっては意味が無い。
「待て待て。そう慌てるな。アイツらならそろそろ地下についている頃だ」
「…えっ…」
「もうついてるって…」
「れたちあってない」
「当たり前だ。なにせ穴を掘っていったからな。だから落ち着いて状況の説明をしろ」
　ある程度の事ならばトリコ達に任せても心配は無いが、場合によっては研究所内の設備を要する必要性が出てくる。
　子供達の様子から、手遅れ、といった事態を引き起こさない為にも状況の把握は今のマンサムが為さなければならない事だった。
「…ぼくのどくで…こまつさんを…」
「ちがうだろ！あ、ちがわねぇけど、ココのせいじゃないんだ！」
「まつがココ、ぎゅってした！」
「でっけぇはねのあるいぬがいてココがたすけようとしたらいぬがあばれてココがやられそうになって」
「ぼくがあんなことしなければよかったんだ…」
「ココわるくない。れもあいつたすけたかった」
　自分を責める子供。
　傷付けたのは真実だが、その子供を責める事をしない子供達。
「そうか」
　だが正直な所、マンサムは小松の心配はしていなかった。
　全く気にならない訳ではないが、今はそれ以上に気になる事があった。
　先程のココの毒の威力。
　子供達に気付かれぬように壁に目を遣れば、まだ毒は壁を侵食している。
　毒を放った本人はこの威力に気付いていない。
　放った時も当てようとする意思が感じられなかった事から、威嚇程度の威力のつもりだったのだろう。
　マンサムが今把握しようとしているのは、小松の事でも地下にあるであろう施設の事でもない。
　今は何よりも　　　　　　　　　この3人の状態が気になってならなかった。
　手遅れになってしまうのではないか、と。